歴史をざっと眺めると、現代人が「仕事で疲れた」と言っている姿のほうが、むしろ人類史の例外なんじゃないかと思えてくる。 縄文時代なんて、まず衣食住を整えてから土器や装飾品を作り始めるし、あれは完全に“趣味の延長”だ。弥生で農耕が始まっても、仕事は生活の一部であって、今みたいに「仕事とプライベートを分ける」なんて概念は存在しない。古代の日本でもアメリカ先住民でも、農耕・漁労・狩猟・織物・鍛冶といった営みは“役割”であり、ストレスという言葉すら必要なかった。中世になっても、武士は武士として、商人は商人として、自分の生き方そのものが仕事だった。 ところが産業革命で一気に流れが変わる。時間で管理され、単純作業を繰り返し、賃金のために働くという“義務としての仕事”が生まれたのは、たった200年前の話だ。ここで初めて「仕事=しんどい」が定着する。 現代アメリカでは、むしろ一次情報を取りに行く人が強く、カンファレンスや企業訪問、現場視察は“仕事”というより知的な遊びに近い。情報を取りに行く行為そのものが価値になるから、彼らは足で稼ぐし、話を聞きに行く。一方、日本は仕事が義務化しすぎて、形式や手続きが目的化し、歴史的に見ても不自然なほどストレスを抱える働き方が当たり前になってしまった。だから私は、米国株の一次情報を取りに行くための手段として仕事を使うほうが合理的だと思っている。好きな本を読むように、知的好奇心を満たしながら働くほうが圧倒的に楽だし、歴史の流れに照らしてもそっちのほうが自然だ。 そして最近ふと思うのは、産業革命が人類の働き方を根本から変えたように、量子コンピューターの普及前後でも、また世界の“仕事観”がひっくり返るんじゃないかということだ。もし計算の概念そのものが変わるなら、仕事の意味もまた変わる。そう考えると、今のうちから“仕事=娯楽”という原点に戻っておくほうが、むしろ未来に適応しやすいのかもしれない。