最近、面白いことがあった。 35~40歳以降は、自宅を拠点に投資(デイトレード)を行いながら、習い事(主に合気道)などを通じて比較的ゆったりと生活していくイメージを持っている。 生きるために働く段階では、 労働は「生存の手段」になる。 一方で、生存がある程度満たされると、 労働は 「自分が社会にどう関与したいか」 を考える行為に変わる気がする。 私は今、後者の段階にいる感覚だ。 仕事を 「自分の価値を証明する場」ではなく、 「社会と一定の距離で関わる手段」 として捉えている。 なので、 周囲から見ると 「力を抜いて見える」 「危機感がないように見える」 というのは理解できる。 ただ、自分の中では 力を抜いているのではなく、配分している 感覚である。 自覚としては、 生存のために全力で働く、というフェーズは ある程度通過した感覚がある。 今は、 仕事を通じて 「どう関わると全体が安定するか」 を静かに考えている段階である。 その分、 必死に見えないのは分かりますし、 そこが「常識がない」と映るのも理解できます。 ただ、 手を抜いているというよりは、 役割の取り方が少し違う という感覚である。 ここで息抜きに4/14付近(JST)の写真↓ 歴史をざっと眺めると、現代人が「仕事で疲れた」と言っている姿のほうが、むしろ人類史の例外なんじゃないかと思えてくる。 縄文時代なんて、まず衣食住を整えてから土器や装飾品を作り始めるし、あれは完全に“趣味の延長”だ。弥生で農耕が始まっても、仕事は生活の一部であって、今みたいに「仕事とプライベートを分ける」なんて概念は存在しない。古代の日本でもアメリカ先住民でも、農耕・漁労・狩猟・織物・鍛冶といった営みは“役割”であり、ストレスという言葉すら必要なかった。中世になっても、武士は武士として、商人は商人として、自分の生き方そのものが仕事だった。 ところが産業革命で一気に流れが変わる。時間で管理され、単純作業を繰り返し、賃金のために働くという“義務としての仕事”が生まれたのは、たった200年前の話だ。ここで初めて「仕事=しんどい」が定着する。 現代アメリカでは、むしろ一次情報を取りに行く人が強く、カンファレンスや企業訪問、現場視察は“仕事”というより知的な遊びに近い。情報を取りに行く行為そのものが価値になるから、彼らは足で稼ぐし、話を聞きに行く...