現代社会において、通知は日常の一部となっている。スマートフォンは常に振動し、誰かの言葉や画像が、私たちの時間を奪っていく。多くの人はそれを当然のことと受け入れているが、果たしてそれは本当に「自由」なのだろうか。本稿では、通知を拒むという行為が、いかに深い思想と自己理解に基づいているかを述べたい。
私は、LINEやInstagramなどのSNS通知をすべてオフにしている。理由は明快である。プライベートの時間を、他者の都合によって中断されたくないからである。読書や思索といった静かな時間は、私にとって最も価値あるものであり、それを守ることは自己の尊厳を守ることに等しい。一方で、当たり前だが仕事に関するOutlookやTeamsなど、その他アプリの通知は全てオンにしている。これは、職務において迅速なレスポンスが信頼と責任の証であると考えるからである。
8月ごろ、とある人(個別具体的に言うと怒られるからこのような表現をする)から「LINEやInstagramの通知もオンにしろ(Angry)」と言われた。その言葉に対し、私はこう思った。「時間の価値を理解していない者、他者の時間を消費することに無自覚な者こそが、そうした主張をするのだ」と。時間とは、最も平等に与えられ、最も不平等に使われる資源であると私は考えている。ゆえに、それをどう使うかは、その人間の知性と美学を映し出す鏡であると思う。
ここからは過去に読んだ本からの引用を多めに投稿する。
哲学者マルティン・ハイデッガーは、人間を「時間の中に存在する存在(現存在)」と定義した。つまり、時間の使い方は、その人の存在の在り方そのものである。SNSの通知をオフにするという行為は、他者による時間の侵食を拒み、自己の存在を自律的に保とうとする意志の表れである。
また、ストア派哲学は「理性による自己統制」を重視した。他者の期待や社会的ノイズに左右されず、自分の理性に従って生きることを理想とした。私の通知設定は、まさにそのような内的自由を守るための選択である。
哲学者アーサー・ショーペンハウアーは、「凡人は時間を持て余し、賢者は時間を活用する」と述べた。彼の言葉は、時間の使い方が人間の精神的成熟度を示すことを教えてくれる。SNSの通知に反応することは、しばしば他者の期待に応えることに過ぎず、自己の内面を育てる時間を奪う行為である。
さらに、古代ギリシャの哲学者エピクロス「快楽とは、心の平穏(アタラクシア)である」と説いた。読書や静かな時間は、まさにこのアタラクシアをもたらすものであり、通知による絶え間ない刺激はそれを妨げる。
通知を切るという行為は、現代においては小さな反抗である。しかし、その反抗は、自己の時間を取り戻し、精神の静けさを育むための第一歩でもある。哲学者たちは、古代より「いかに生きるべきか」を問い続けてきた。私たちもまた、日々の選択の中でその問いに答えている。SNSの通知をオフにすることは、他者の期待に流されず、自分自身の価値観に従って生きるという、静かで力強い宣言であると考えている。
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