幸福とは何か――哲学の最も古典的かつ根本的な問いである。ブータンという国は、「国民総幸福量(GNH)」という独自の理念を掲げ、物質的豊かさよりも精神的充足を第一に考える国家として世界的に注目された。有名な話、2005年の国勢調査において、ブータン国民の97%が「幸せ」と回答している事実がある。しかし最新のGNH調査(2025/11/11時点)でブータン国民の平均幸福度が0.781(0~1の指標値)と報告されていた。SNSの普及が進む現代、幸福観は大きく揺らぎつつあり、世界の豊かさや他者の生活が可視化されることで、伝統的な仏教思想に根ざした「足るを知る」価値観が失われつつあるという現象が起きている。
今回ははそんなことも気にせずSNSを見て勝手に不幸を感じてる残念なお馬×鹿さんたち対するお話。
上記でも述べたが再度述べる。
伝統的なブータン社会においては、仏教思想に根ざした「足るを知る」という価値観、すなわち自己の充実やコミュニティとの調和こそが幸福の本質とされていた。他者との比較に左右されない内発的幸福観が強調されていたのである。しかし、SNSやスマートフォンの拡大によって、人々は世界の富豪や他国の豊かな暮らしに簡単に触れるようになった。
具体例は一つにとどめる。(出勤中だから時間が足りないので)
BeRealというクソみたいなアプリである。これによって、他者が日々どのように遊び、どんな体験や消費をしているのかリアルタイムで晒される時代となった。先日、彼女がそのクソみたいなアプリ、BeRealで目にした友人たちの楽しげな投稿を見て、「私たちもあんなことをしたい」と口にした。私には、状況や現実的な理由から不可能だと判断し、無理だと伝えたところ、彼女は明らかに不機嫌になった。このエピソードが端的に示すのは、SNSを介した他者の表面的な幸福と自分たちの現実とのギャップが、新たな不足感や不満、そして不幸の感情を生み出すという事実である。このことを背景に、私自身は「不幸の原因を取り除くことが幸福に直結する」という考えに至っている。実際、自分の大切な人――すなわち彼女にも「不幸のもとを消したいなら、SNSをやめるのが早道だ。もっと幸福を強く感じたければ、SNSを消すべきだ」と助言したことがある。比較と不足感こそが現代的な不幸を生む最大の温床であり、それを遮断すれば本来の精神的充足が得られると確信しているからである。しかし、残念ながら彼女はこうした意見に耳を貸さず、SNSをやめようとしないのが現実である。
少し雑談、「まだ彼女は若いから」という理由で見逃してきたがふと昨日改めて思ったことがある。年齢はその人がどのくらい生きてきたのかを教えてくれるだけでどのように生きてきたかは教えてくれない。つまり大切なことは年齢に問わず早めに言わないといけないと感じた。でなければ、彼女は年を取った子ども状態になって最悪だからである。
さて本題に戻る。(そろそろ会社に着くからもう終わりにする予定)
ブータンの事例は、幸福の在り処を考える上でとても重要な事例である。「自己の充実」と「他者との比較」のせめぎ合いは今なお続いている。私自身、幸福とは不要な比較や劣等感を生む環境――すなわちSNS――を遠ざけることで、より強く感じられるものだと考えるが、人は必ずしも合理や論理だけでは行動しない。結論はでているのに難しい問題だと感じた。
ちさと、とにかく本を読め。今回は以上。
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